|
映画やテレビドラマにおいては通例、「脚本」が用意される。いわゆるオリジナル脚本のほか、原作があって、それを脚色した脚本もある。 脚本は紙と鉛筆があれば書ける。したがって資金が無い者はすぐ映画は撮れないので、脚本からはじめる場合が多いだろう。 「シナリオ」とは映画の脚本のことを指すと思われる。テレビドラマの場合は単に「脚本」と言う場合が多い。しかし映画のクレジットには監督・脚本という感じで流される場合が多い。言い方の区分は曖昧なのかもしれない。 日本で脚本を学ぶ者はたいてい同じ本を読む。また、テレビ局のコンテストなどに応募したりすることも多い。 一方で、いきなり映画を撮る人たちがいる。 もちろん、脚本も用意するだろうが、それは脚本スクールで熟練したノウハウを持つ者のものとは異質だろう。 では、映画から入るか、脚本から入るか。迷うところだろう。 橋本忍を神とあがめる人からブレッソンを神とあがめる人までさまざまだし、ホラー映画の脚本から、デリダやドゥルーズ、フッサール、ハイデガーまで持ち込む脚本(まだ?)まであるのだろう。 カルトな脚本を指向する人たちもいるわけだし、その時代のマーケットに育成するような人々が選ばれるのだろう。しかし、政治的意図からすぐに収縮させれることが多いので、まともなものは日の目を見ないことが多い。 しかし、2008年3月現在の状況で言えば、もはやテレビドラマは自ら収縮傾向にあるように思われる。映画においても脚本を一義的価値としたテレビ映画は収縮傾向にある。 人々が「物語」に飽和しているのだ。造作的なキャラや二面性、セリフの奇抜さにも飽和している。テレビはいわゆるテレフォンショッピングが中心になりつつある。もはやドラマで視聴率が30%もあった時代とは違うのだ。 また、一方で表象系映画というのもある。こちらはゴダールを機軸とし、トリュフォーやルノワール、ジョン・フォード、小津に価値を置く。脚本連中がレオンの監督とカラックスを同時にリスペクトするような矛盾・混沌さとは違い、こちらはむしろ系統がはっきりしている。 しかし、ゴダールはもはや映画を毎年作るような状況では無いわけだし、リスペクトされている監督はほとんど死に絶え、また若手の中心的監督たちも興行の難しさと対峙せねばならず、またその作品も、思いきったものが作れていないように思う。 では一体、今後、映画はどうなるのだろうか。 おそらく、我々にとって、参考になる重要な映画作家はマイケル・マンやトニー・スコットであろう。 もちろん、ゴダールも見逃せない。そして北野武、黒沢清、青山真治、井口奈己だろう。 テレビの時代はもはや終わりと言う事になるだろう。それにも負けず、テレビが頑張るなら、デリダやドゥルーズ的世界観をセリフに入れ、今のドラマより数十倍濃密・探求的なものを作らなければならないだろう。しかし、このような人材の多くはデジタル時代においては映画の方に走るだろう。 なぜなら、今や映画撮影機材は、野球のグローブやバットを買う感覚で揃えられるからだ。 ドリーはもう必要無い。ステディカムやその防具が安価に手に入るからだ。 ナビゲーションがあるので海外ロケだって、短期間低コストで行なえる。 映画は虚構性の優劣の時代に入るだろう。 それはアニメーションにも言える。虚構性のあるアニメーション映画作家として宮崎駿がいる。『となりのトトロ』の虚構性を侮るべきではないし、他のアニメーションより数段上を行っているように思える。こちらもいわゆるアニメを輸出するような価値観と同列に語られてしまっているので不幸な状況だろう。 この虚構性を作る才能は映画においても脚本においても実写・アニメとの区分でも大差は無いと思う。脚本で虚構性を表現できない者は映画でも表現できないし、やはり関係性は今と同じなのであろう。アニメでも虚構性とデフォルメの区分が曖昧であり、虚構性のあるアニメは極端に少ない。 現代のアニメなどは造形の原点が皆同じで、犯罪を犯すアメリカ人などの格好の情状酌量タネになりつつある。いわば魚を食ったから、犯罪を犯してしまったというのが現代のアメリカ人であり、ジョーク的陪審員気質を見抜けなかったのだろう。そんなのはチャールズ・ロートンの『狩人の夜』を見ればわかることだ。 「映画は人生を学ぶ場」ということが再認識されるはずである。化粧品を売ったり、アイドルを売る場所では無いことに気づきはじめている人も多いだろう。 スターの時代では無いのである。 すなわち、20台の若手では映画は作れない。大企業の役員に、20台の若者が「人生を云々」できないわけだから、作れない。作れるが、作れない。笑われるだけである。 もし作ろうとするなら99%引用の映画となるだろう。そういった態度を持つ監督、ゴダールを再認識すべきだろう。もしくは原作を脚色する映画ということになる。その原作は若手ではない、大企業の役員が見ても、納得できるものでなければならないのだろう。原典・テキストは大学教授並みに厳選する必要がある。そこらの○○賞とかの作家は「もういい」という感じもする。あちらも飽和状態なのになぜわざわざ映画がトレースするのかと。 すなわち、映画が作れる人は、イチローや松坂を指導できるようなめずらしき「親」でなければならないと私は考える。 その「親」とは「過渡的指導を超越した親」であって、我々の苦しみや苦悩をラクに簡単に映像で解決、示唆してくれる人であろう。ゆえに20台の若者には作れないのである。 それは宗教とも違う。宗教的教条の論語や朱子学でもない。オートメーションのような教条では映画は無理である。 新しい思考や考え方を示唆してくれる、偏頭痛を和らげる「動的イマージュコンサルタント」でもあろう。 それが映画だったのだ。嘘の無い世界、人々の「心の(脳の)友」が映画なのである。ゴダールの『映画史』に掲げられる映画というもの(映画と認められるもの)の少なさとは、そういうことではないかと思うのである。 リュミエールが言う「物語映画に未来は無い」というのも、物語を語るなら演劇と変わりない、演劇の代替物という概念からの脱却すべしということを示唆しているものなのだろう。 若者を使うのはコストが安いし、よく働くからというのはどこの世界も同じであるが、それでは済まされない時代になりつつある。 トニー・スコットの最新作『デジャブ』を見ればそれが単純な構造で無いことはわかる。動的イマージュの炸裂の中で、我々は「愛国者は情緒不安定なので、兵士には不適格となり、なれない」ことを知る。ジョン・フォードの『周遊する蒸気船』を爆破しようとする犯人、それを阻止する・・・つまり映画(=アメリカ映画)をいかに守るかという宿命への対峙を見せ付けられる。 マイケル・マンの『コラテラル』でも動的イマージュの炸裂の中で、我々の研ぎ澄まされた過剰な防衛精神、目指すべき完全さ=アイデンティティというものがいかに崩壊させられて、無意味であり、むなしいものか、モルディブやベンツSの方が、いかに健全かということを見せ付けられるわけである。 こういったものは若者には作れないし、純粋にベンツSクラスを欲しいという価値観を健全と思えず、親から引き継いだ儒教的価値観の殻の中でせいぜい代ゼミあたりで植えつけられたものさしで遊泳しているにすぎないのだから。 我々はトニー・スコットやマイケル・マンの映画から小銃を突きつけられ、やっと重い腰を上げてオリヴェイラの『夜顔』や井口奈己の原作アリ映画を見に行くのだ。 そして、井口奈己の映画の中で何やらパゾリーニ的な引用があったのだろうかという焦燥感と、オリヴェイラの『夜顔』におけるパリの虚構性へのいとおしい懐かしさを感じる中で、ひとつの仮説を立てずにはいられないのである。 ”若者(20台)には映画は早々作れないのではないか” しかし、すべての若者が作れないわけでは無いであろう。もしイチローのバッティングに手首と脳の意思伝達系統との関連性を見出すような冷静さと分析力を持つ20台の若者がいたとしたならば、紛れも無く、彼(彼女)は映画が作れるかもしれないのだから。 しかし、監督が若いというだけで見る気を無くすというのが今の映画だし、それほど映画は大量に作られてしまっている現実を見るべきだろう。 そして中身が薄いのにゴダール・ドレッシングをいくらふりかけても、冒涜にしか思えないのだが、とりあえず、ピックアップできるように目印として少しの冒涜があっても良いと思う。 でないと、非常にわかりにくいし、最低ウディ・アレンはリスペクトするフリは欲しいところだ。 中学生のくせにウディ・アレンを語る者は信用しないが、19歳以上でウディ・アレンを好いたならば、正直に『ボギー!俺も男だ』が最高でとても面白かったと言うべきだろう。 ボギー、俺も男だ/ パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン ISBN : B00005IOHE スコア選択: 生意気に『カメレオンマン』とか言うから、またいらつかれるのだ。 そういう対外的な折衝能力というのも若者には難しいのだろう。見透かされてしまうのだ。 まずは 『ボギー!俺も男だ』で泣いて笑って、その後にこれが冒涜であるという冷ややかな冷徹さを身につけながらも、カメレオンマンが、リア王があるじゃないか、という「プロセス」が無いとどうも信用できないのである。もちろんハーバート・ロスが監督だなんて、突っ込みは不用なのだ。あれこそ、ウディ・アレンの凝縮された無垢な形なのだ。 ヴィスコンティにしても同じことが言えよう。軽やかにマーラーブームがどうのと言ったり、きらびやかな衣装とオカマ、ヴィスコンティ家を関連付けたりすることが普通なのだが、ヴィスコンティの『ベニスに死す』において、アッシェンバッハが娘のプッチを回想する場面で泣かなかった者は、ある種、信用できないのである。似非健康用品の売りつけサイトぐらいの怪しさなのだ。 その回想振りが母性的だから、涙をふいて戒めなければという覚悟、というプロセスだ。 そのようなプロセスが無いまま、アルドリッチを語ることが、中学生がウディ・アレンを語るのにリンクするというか、似ているのだ。 しかし、若者を責めても仕方なかろう。私も若者だったわけだし、ミスも多くしたわけだ。いや、現在でも若者という立場でいびられることさえあるのだ。 誰が何を好きかということは本人の自由なわけだ。軽やかに無視すればいいだけの話だろうが、私は若者時代、大人に認められたかったので、そう思っている若者も多くいるだろうから、迷える子羊には手助けして教えてやりたいのである。 「ゴダールを見ろ、ウディ・アレンに泣け」と。 「中学生のくせにウディ・アレンは語るな、100年早い。スピルバーグに泣け」と。 「プッチに泣かずはヴィスコンティを語るな」 「『狩人の夜』も見ずに子供を救うと語るな」 狩人の夜/ 紀伊國屋書店 ISBN : B0000W3NGQ スコア選択: 等々、いろいろと言いたいこともあるのだが、それはブログ読者の方も大有りだと思う。 しかし、私は良い映画が見たくてたまらない人なので、是非ゴダールの後に来る映画をバンバン作って欲しいと思っている一観客であるので、専門外でもあるし好き勝手言わせて欲しい。 しかし、私もザハトラーやクロジールのマットボックスも買ってしまうほど、映画撮りにも興味あるので、こういった悪態に口を塞がねばならなく日も近いのかもしれない。 ぐずぐずはしていられないのだ。 とりあえずプロットだけは決まった。断片的な撮影も休日を使って行なっている。 そのうち予告編も流すかもしれません。 |
< 前のページ次のページ >








