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職業: 東京/ 世田谷/ 用賀の税理士 映画批評日誌
by oshiba5555
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『狩人の夜』も見ずに子供を救うと語るな

 映画やテレビドラマにおいては通例、「脚本」が用意される。いわゆるオリジナル脚本のほか、原作があって、それを脚色した脚本もある。
 
 脚本は紙と鉛筆があれば書ける。したがって資金が無い者はすぐ映画は撮れないので、脚本からはじめる場合が多いだろう。

 「シナリオ」とは映画の脚本のことを指すと思われる。テレビドラマの場合は単に「脚本」と言う場合が多い。しかし映画のクレジットには監督・脚本という感じで流される場合が多い。言い方の区分は曖昧なのかもしれない。

 日本で脚本を学ぶ者はたいてい同じ本を読む。また、テレビ局のコンテストなどに応募したりすることも多い。

 一方で、いきなり映画を撮る人たちがいる。

 もちろん、脚本も用意するだろうが、それは脚本スクールで熟練したノウハウを持つ者のものとは異質だろう。

 では、映画から入るか、脚本から入るか。迷うところだろう。

 橋本忍を神とあがめる人からブレッソンを神とあがめる人までさまざまだし、ホラー映画の脚本から、デリダやドゥルーズ、フッサール、ハイデガーまで持ち込む脚本(まだ?)まであるのだろう。
 カルトな脚本を指向する人たちもいるわけだし、その時代のマーケットに育成するような人々が選ばれるのだろう。しかし、政治的意図からすぐに収縮させれることが多いので、まともなものは日の目を見ないことが多い。

 しかし、2008年3月現在の状況で言えば、もはやテレビドラマは自ら収縮傾向にあるように思われる。映画においても脚本を一義的価値としたテレビ映画は収縮傾向にある。

 人々が「物語」に飽和しているのだ。造作的なキャラや二面性、セリフの奇抜さにも飽和している。テレビはいわゆるテレフォンショッピングが中心になりつつある。もはやドラマで視聴率が30%もあった時代とは違うのだ。

 また、一方で表象系映画というのもある。こちらはゴダールを機軸とし、トリュフォーやルノワール、ジョン・フォード、小津に価値を置く。脚本連中がレオンの監督とカラックスを同時にリスペクトするような矛盾・混沌さとは違い、こちらはむしろ系統がはっきりしている。

 しかし、ゴダールはもはや映画を毎年作るような状況では無いわけだし、リスペクトされている監督はほとんど死に絶え、また若手の中心的監督たちも興行の難しさと対峙せねばならず、またその作品も、思いきったものが作れていないように思う。

 では一体、今後、映画はどうなるのだろうか。

 おそらく、我々にとって、参考になる重要な映画作家はマイケル・マンやトニー・スコットであろう。

 もちろん、ゴダールも見逃せない。そして北野武、黒沢清、青山真治、井口奈己だろう。

 テレビの時代はもはや終わりと言う事になるだろう。それにも負けず、テレビが頑張るなら、デリダやドゥルーズ的世界観をセリフに入れ、今のドラマより数十倍濃密・探求的なものを作らなければならないだろう。しかし、このような人材の多くはデジタル時代においては映画の方に走るだろう。
 

 なぜなら、今や映画撮影機材は、野球のグローブやバットを買う感覚で揃えられるからだ。
 ドリーはもう必要無い。ステディカムやその防具が安価に手に入るからだ。
 ナビゲーションがあるので海外ロケだって、短期間低コストで行なえる。

 映画は虚構性の優劣の時代に入るだろう。

 それはアニメーションにも言える。虚構性のあるアニメーション映画作家として宮崎駿がいる。『となりのトトロ』の虚構性を侮るべきではないし、他のアニメーションより数段上を行っているように思える。こちらもいわゆるアニメを輸出するような価値観と同列に語られてしまっているので不幸な状況だろう。

 この虚構性を作る才能は映画においても脚本においても実写・アニメとの区分でも大差は無いと思う。脚本で虚構性を表現できない者は映画でも表現できないし、やはり関係性は今と同じなのであろう。アニメでも虚構性とデフォルメの区分が曖昧であり、虚構性のあるアニメは極端に少ない。

 現代のアニメなどは造形の原点が皆同じで、犯罪を犯すアメリカ人などの格好の情状酌量タネになりつつある。いわば魚を食ったから、犯罪を犯してしまったというのが現代のアメリカ人であり、ジョーク的陪審員気質を見抜けなかったのだろう。そんなのはチャールズ・ロートンの『狩人の夜』を見ればわかることだ。

 「映画は人生を学ぶ場」ということが再認識されるはずである。化粧品を売ったり、アイドルを売る場所では無いことに気づきはじめている人も多いだろう。
 スターの時代では無いのである。
 
 すなわち、20台の若手では映画は作れない。大企業の役員に、20台の若者が「人生を云々」できないわけだから、作れない。作れるが、作れない。笑われるだけである。

 もし作ろうとするなら99%引用の映画となるだろう。そういった態度を持つ監督、ゴダールを再認識すべきだろう。もしくは原作を脚色する映画ということになる。その原作は若手ではない、大企業の役員が見ても、納得できるものでなければならないのだろう。原典・テキストは大学教授並みに厳選する必要がある。そこらの○○賞とかの作家は「もういい」という感じもする。あちらも飽和状態なのになぜわざわざ映画がトレースするのかと。

 すなわち、映画が作れる人は、イチローや松坂を指導できるようなめずらしき「親」でなければならないと私は考える。

 その「親」とは「過渡的指導を超越した親」であって、我々の苦しみや苦悩をラクに簡単に映像で解決、示唆してくれる人であろう。ゆえに20台の若者には作れないのである。

 それは宗教とも違う。宗教的教条の論語や朱子学でもない。オートメーションのような教条では映画は無理である。

 新しい思考や考え方を示唆してくれる、偏頭痛を和らげる「動的イマージュコンサルタント」でもあろう。

 それが映画だったのだ。嘘の無い世界、人々の「心の(脳の)友」が映画なのである。ゴダールの『映画史』に掲げられる映画というもの(映画と認められるもの)の少なさとは、そういうことではないかと思うのである。

 リュミエールが言う「物語映画に未来は無い」というのも、物語を語るなら演劇と変わりない、演劇の代替物という概念からの脱却すべしということを示唆しているものなのだろう。

 若者を使うのはコストが安いし、よく働くからというのはどこの世界も同じであるが、それでは済まされない時代になりつつある。

 トニー・スコットの最新作『デジャブ』を見ればそれが単純な構造で無いことはわかる。動的イマージュの炸裂の中で、我々は「愛国者は情緒不安定なので、兵士には不適格となり、なれない」ことを知る。ジョン・フォードの『周遊する蒸気船』を爆破しようとする犯人、それを阻止する・・・つまり映画(=アメリカ映画)をいかに守るかという宿命への対峙を見せ付けられる。

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 マイケル・マンの『コラテラル』でも動的イマージュの炸裂の中で、我々の研ぎ澄まされた過剰な防衛精神、目指すべき完全さ=アイデンティティというものがいかに崩壊させられて、無意味であり、むなしいものか、モルディブやベンツSの方が、いかに健全かということを見せ付けられるわけである。

 こういったものは若者には作れないし、純粋にベンツSクラスを欲しいという価値観を健全と思えず、親から引き継いだ儒教的価値観の殻の中でせいぜい代ゼミあたりで植えつけられたものさしで遊泳しているにすぎないのだから。

 我々はトニー・スコットやマイケル・マンの映画から小銃を突きつけられ、やっと重い腰を上げてオリヴェイラの『夜顔』や井口奈己の原作アリ映画を見に行くのだ。

 そして、井口奈己の映画の中で何やらパゾリーニ的な引用があったのだろうかという焦燥感と、オリヴェイラの『夜顔』におけるパリの虚構性へのいとおしい懐かしさを感じる中で、ひとつの仮説を立てずにはいられないのである。

 ”若者(20台)には映画は早々作れないのではないか”

 しかし、すべての若者が作れないわけでは無いであろう。もしイチローのバッティングに手首と脳の意思伝達系統との関連性を見出すような冷静さと分析力を持つ20台の若者がいたとしたならば、紛れも無く、彼(彼女)は映画が作れるかもしれないのだから。

 しかし、監督が若いというだけで見る気を無くすというのが今の映画だし、それほど映画は大量に作られてしまっている現実を見るべきだろう。

 そして中身が薄いのにゴダール・ドレッシングをいくらふりかけても、冒涜にしか思えないのだが、とりあえず、ピックアップできるように目印として少しの冒涜があっても良いと思う。

 でないと、非常にわかりにくいし、最低ウディ・アレンはリスペクトするフリは欲しいところだ。

 中学生のくせにウディ・アレンを語る者は信用しないが、19歳以上でウディ・アレンを好いたならば、正直に『ボギー!俺も男だ』が最高でとても面白かったと言うべきだろう。
ボギー、俺も男だ
/ パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン
ISBN : B00005IOHE
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 生意気に『カメレオンマン』とか言うから、またいらつかれるのだ。

 そういう対外的な折衝能力というのも若者には難しいのだろう。見透かされてしまうのだ。

 まずは 『ボギー!俺も男だ』で泣いて笑って、その後にこれが冒涜であるという冷ややかな冷徹さを身につけながらも、カメレオンマンが、リア王があるじゃないか、という「プロセス」が無いとどうも信用できないのである。もちろんハーバート・ロスが監督だなんて、突っ込みは不用なのだ。あれこそ、ウディ・アレンの凝縮された無垢な形なのだ。

 ヴィスコンティにしても同じことが言えよう。軽やかにマーラーブームがどうのと言ったり、きらびやかな衣装とオカマ、ヴィスコンティ家を関連付けたりすることが普通なのだが、ヴィスコンティの『ベニスに死す』において、アッシェンバッハが娘のプッチを回想する場面で泣かなかった者は、ある種、信用できないのである。似非健康用品の売りつけサイトぐらいの怪しさなのだ。
 その回想振りが母性的だから、涙をふいて戒めなければという覚悟、というプロセスだ。
 そのようなプロセスが無いまま、アルドリッチを語ることが、中学生がウディ・アレンを語るのにリンクするというか、似ているのだ。

 しかし、若者を責めても仕方なかろう。私も若者だったわけだし、ミスも多くしたわけだ。いや、現在でも若者という立場でいびられることさえあるのだ。
 誰が何を好きかということは本人の自由なわけだ。軽やかに無視すればいいだけの話だろうが、私は若者時代、大人に認められたかったので、そう思っている若者も多くいるだろうから、迷える子羊には手助けして教えてやりたいのである。

 「ゴダールを見ろ、ウディ・アレンに泣け」と。
 「中学生のくせにウディ・アレンは語るな、100年早い。スピルバーグに泣け」と。
 「プッチに泣かずはヴィスコンティを語るな」
 「『狩人の夜』も見ずに子供を救うと語るな」

狩人の夜
/ 紀伊國屋書店
ISBN : B0000W3NGQ
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等々、いろいろと言いたいこともあるのだが、それはブログ読者の方も大有りだと思う。

しかし、私は良い映画が見たくてたまらない人なので、是非ゴダールの後に来る映画をバンバン作って欲しいと思っている一観客であるので、専門外でもあるし好き勝手言わせて欲しい。

 しかし、私もザハトラーやクロジールのマットボックスも買ってしまうほど、映画撮りにも興味あるので、こういった悪態に口を塞がねばならなく日も近いのかもしれない。

 ぐずぐずはしていられないのだ。

 とりあえずプロットだけは決まった。断片的な撮影も休日を使って行なっている。
 そのうち予告編も流すかもしれません。

 
# by oshiba5555 | 2008-03-25 04:11 | 脚本と構成

ジョン・フォードという響き

 ジョン・フォードという名前を語ることは簡単なようで難しい。ジョン・フォードという名前を語るということは時と場合によっては特別な意味をもたらすのであろう。

 もちろん誰でも「ジョン・フォード」と発声する事はできる。しかし、映画作家が「ジョン・フォード」と叫ぶ時、それはあたかも「誓い」のような、そして唐突に、奇声のごとく叫びとしての「ジョン・フォード」なのであろう。

 それはひとつの覚悟への、あたかも映画への忠誠の言葉のごとくである。「ジョン・フォード」と叫んだら、それは映画作家としての重荷を自ら背負うという誓約の言葉であるのかもしれない。

 であるから、映画で一財産築き上げたいという方やヒットを狙う映画監督がいくら「ジョン・フォード」と叫んでも、それはただの言葉にすぎないし、過去にいた映画監督の名前にすぎない。

 では一体、「ジョン・フォード」とは何なのか。

 「ジョン・フォード」と唐突に叫ばれる映画の名場面は次の二つにある。

・ジャン=リュック・ゴダール『フォーエヴァー・モーツアルト』(96)
・ヴィム・ヴェンダース『都会のアリス』(74)


フォーエヴァー・モーツァルト
ヴィッキー・メシカ / / 紀伊國屋書店
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 上の二つの場面に共通することは、「ジョン・フォード」という言葉が、唐突に叫ばれたり、記号としてつぶやかれたり、とにかく意味が無く奇声のように発せられている点であろう。

 なぜこのような奇声のごとくであるのか。その不自然さを受容することが第一歩かもしれない。

 意味を嫌うワード、それが「ジョン・フォード」なのかもしれない。

 それは、観客が判断すべきことだろうから、あえて意味をもたせないとも言える。

 しかしそれはおそらく映画への誓約というか、映画であることへの喜びの表明なのかもしれない。もはやそこには興行収入云々やア○デミー賞云々は介在しないのだろう。

 そんな難しさを持つ映画的な言葉が「ジョン・フォード」なのだ。しかも唐突に語られることによって輝きを増すのである。そしてそれは映画への「忠誠、誓約」であるから、軽々しく発せられないものでもあるのだ。ジョン・フォードを饒舌に語ることは危険でもあるのだ。

 つまり、例えば東京タワーに登って、下界の東京を見れば、高層ビルや車が目に入る。しかし、よく見ると、遠くに雲の間から東京湾に光が射し込んでいたり、影になっている部分はゆっくりと動いている雲の影であったりするのがわかる時があるかもしれない。

 光と影を見出すこと、それが「ジョン・フォード」なのかもしれない。そういう態度を各人が持って、はじめてジョン・フォードという生き方を少し垣間見れるのかもしれない。

 それは決して老人ホームでは見ることが出来ない。たとえ息切れしながらも杖をついて、若者に押されながら、死の病を抱えながらも歩く80歳を超える老人になっても、自ら街を歩き、区役所に出向き、再び歩きだし、人生を計算し、そして、目の前を横切る電車や、路面電車の窓から、光が交互に路面を映し出すような時に力強く生きる決意を己に確認する、それが「ジョン・フォード」なのかもしれない。

 動きのある、光と影に囲まれ、見て感じること、それがジョン・フォードであるのかもしれない。

 
 しかし、ジョン・フォードはいまだ解明されていないのであろう。我々は一般的に、ジョン・フォードという映画監督を即物的に語ることでひとまず、安心して落ち着くのでは無いか。
 脚本や大作を語ることもあろう。

 しかし、それでは不十分なのがジョン・フォードなのであろう。

 ジョン・フォードを唐突に語ることはそれほどに難しいのであろう。 

 ゴダールやヴェンダースを見て、ジョン・フォードという響きの扱いを知り、そして『周遊する蒸気船』、『幌馬車』、『捜索者』を見れば、慎重さが必要なことがわかるであろう。

 そして、『周遊する蒸気船』に出演している酔っ払いの役は、兄のフランシス・フォードである。
 この兄の紹介で映画業界に入ったといわれる、自分を西部劇の一監督としか思っていない控え目な態度の監督、ジョン・フォードの作品を見ることは紛れも無く、「数少ない映画というもの」を見る行為であり、観客として「真の映画を守り抜く」という宣誓であり、ある種の暴挙と言っても過言では無いのだ。

周遊する蒸気船
ウィル・ロジャース / / アイ・ヴィー・シー
ISBN : B00005G12N
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 そんな覚悟が無くてもジョン・フォードの映画は実際見れるし、語ることは自由であるのだが。

 ジョン・フォードという響きは、特別な目立つ個性的なものではなく、人並みに人生を計算し、分をわきまえ、いざという時はバンと出る静かで戦略を持った暴挙であり、光と影を見続けるという映画的な意思を表しているのだろう。

 
# by oshiba5555 | 2007-02-24 02:46 | アメリカの映画監督

脚本家のけん制感覚

プロデューサーと監督、脚本家はそれぞれ役割が違う。重複して担う場合、自己内で三権分立が必要だろう。けん制感覚である。

監督が上位であるとか、プロデューサーが上位とかになれば、三権分立は成り立たない。

監督は画がどうなるかを決定する人である。つまり、撮影監督にこういう画にしてほしいと伝えて、あらかじめドリーを手配し、役者の動き、小道具、車や機関車の動きまで画におさめる。

最近は脚本家が監督の領域を侵犯したりする場合もあるのだろう。脚本もすぐれた監督ももちろんいるわけで、そういった場合、自己内三権分立を行っている場合とそうで無い場合は大きく作品が変わるのだろう。

脚本家が画にけん制感覚がなければ、テレビと同様に画面上の2分の1をも人の顔で埋めたりしてしまうのかもしれない。

それでも映画はできてしまうし、公開される。

監督が脚本の領域をけん制感覚無く侵犯することもある。セリフで「心情告白」をしてしまったり、葛藤場面が無く淡々としてしまったり、盛り上がりが無かったりと。

脚本なんて・・・とゴダールがマック・セネットが頼んだ経理屋が脚本家のはじまりと軽視したり、明らかに法則を逸脱した脚本を「新しい」と勘違いしてしまったりするのだろう。

監督が脚本家の脚本に「panがどうの」記入されていると投げたくなるのと同じく、脚本家が構成やセリフをめちゃくちゃにされると投げたくなるのだろう。

そこで監督と脚本家はそれぞれの対立点を明らかにして、どちらにするかを合意しなければならないし、そこに第三者としてのプロデューサーも必要なのだろう。

そういった三者のけん制がなされていればおかしなことにはならないのだろうが、脚本家を雇うとコストがかかるし、面倒なので、監督が脚本を兼ねる場合も多いのだろう。

そういった場合には自己内三権分立が必要になるのであろうが、どうしても監督寄りになってしまうのが現状だろう。

ゴダールにはそれが欠けているのが明らかなのだが、欠けていなかった時代の映画「勝手にしやがれ」ではトリュフォーが脚本家的役割をしており、この作品だけは三権分立をある程度達成しているが、ある程度・・・である。

監督で優れている人が脚本で優れていることはほぼあり得ない。まれであろう。何でもプロ並にできるはずないのである。

しかし、監督も脚本も三権分立的な仕事をしていれば自己内三権分立でもある程度カバーできると言えるのかもしれない。その達成度合いが重要だろう。

逆に言えば監督の意に同調する若いYESマンのライターを雇っても意味が無いだろう。「けん制」してくれる人で無ければ意味は無い。


勝手にしやがれ
/ アミューズソフトエンタテインメント
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# by oshiba5555 | 2006-04-10 19:07 | 脚本と構成

小津安二郎と高度1200メートル

 小津安二郎と私の縁は、「蒲田」と「蓼科」だろう。私が最初に就職した会計事務所は蒲田にあり、その裏が松竹撮影所跡だった。そして蓼科は主にスキーのインストラクターのアルバイトをしていた場所だ。

 会計事務所とか税理士といった仕事は探偵のようなものを想像していただければよい。
 ヴェンダースのハメットの探偵のような感じだ。
 そしてなんとも運命的だが、私が最近東京都の公売で落札した土地も北蓼科にある。

 小津と私の生活テリトリーは似ているのだ。

蒲田で仕事をするということは、何を意味するか。

 蒲田は京浜東北線で川崎の橋を渡ると唐突にあらわれる。決して「きれい」な街ではない。開かない踏み切り、排気ガス、ピンクサロンの看板、汚い雑居ビル。

 発砲スチロールに盛られた土の中に生きていくしかないといった閉塞感がある街だ。

昼にほかほか弁当のから揚げ弁当の列に並び、おそらく多摩川の水をバクテリアで曝気したカルキ臭のする水を飲む。

 そして夏になれば、潮の香りが漂い、夜になればムンとした暑さがコンクリートから立ち上がる。

 おそらく東京都民が単独処理浄化槽が合法だった時代にあふれ出したし尿や生活排水が一番汚く漂う吹き溜まりの街が蒲田だったのだろう。多摩川には洗剤の泡が浮いていたそうだ。

 もはやきれいさを放棄していたのだ。

 このような街で生まれた小津安二郎の映画にはそのトーンに独特の「くすみ」がある。この吹き溜まりの街で一番美しいのは人間の情だろう。


 蒲田の中に「品のある花」が咲いている、その美しさ。それは発泡スチロールに盛られた土に日射しの中で日向ぼっこしてのびているネコを発見して、ほっとした気分に襲われることにも似て、またはムンとした夏のコンクリートとエアコンの排気の熱のうずく夜に同僚と屋上ビアガーデンでソーセージと生ビールを飲みながら、日ごろの鬱憤を言い合うすがすがしさとも言え、失われた「人間としての品性」を取り戻すことへの道程を強く感じることができる不思議な街なのである。

 小津安二郎の映画に出てくるその品性は叙情的であり、蒲田の空気に時折まざる冷たい潮風のごとく衝撃的だ。

 そして近くの羽田空港から飛行機が急旋回をして上がっていく。車輪を出したまま飛んでいく低空のジャンボ機やボーイング767は、あのジム・ジャームシュの映画や、ヴィム・ヴェンダースの映画に出てくる金属的な照り返しを浴びて飛んでいく飛行機と似ている。

羽田空港から離陸する飛行機は必ず急旋回する。そして見えてくるどす黒い空気に混ざって光る街が蒲田だ。

 これから、あなたは沖縄に行くのか、北海道に行くのか。小津安二郎の場合は蓼科だった。

 蓼科という街の高度1200メートルと言うすがすがしさは、蒲田から離陸する飛行機が急旋回を終えて、シートベルトのサインが消える高度なのかもしれない。

 蓼科の山荘での晩年の作品は、おそらく1月末から降るパウダースノウと3月上旬からのべた雪と雪解けによる氷(アイスバーン)の道路、ディーゼルエンジンの車やバスといった旅情の中で考えられたのだろう。

 テオ・アンゲロプロスの映画、『ユリシーズの瞳』での雪道、ディーゼルエンジンの車は旅情を感じずにはいられない。蓼科山や霧が峰といった山から下りてくる冷たい霧は谷に集まり、すべてを隠してくれるのだ。
霧の中でインスタントラーメンの塩味にゆで卵を入れて食べることも旅情の中では許される。
 
 そしてそれは悲痛な叫び声や吐き気に変わるかもしれない。霧は残酷でもあるのだ。

しかし、私はまた小津安二郎の映画を見るだろう。その仕事がまとめられた権威有る書物も山積みされている。小津を知り、高度1200メートルの世界をどう描いたのかを知ることは決してあなたの映画作りの道程で損にはならない経験となるだろう。

監督 小津安二郎
蓮實 重彦 / 筑摩書房
ISBN : 4480873414
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 テオ・アンゲロプロス全集 I~IV DVD-BOX II
/ 紀伊國屋書店
ISBN : B00023BNGK
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# by oshiba5555 | 2005-05-29 06:54 | 日本の映画監督

「完璧な映画作家」のための映画防衛技術論

 映画会社を設立する人、映画会社に出資する人、映画会社を経営する人など、デジタル・インターネット時代において新たな潮流が生まれつつあります。
 映画を作るということは今まで特殊な環境でごく限られた人たちがその実務を行っておりましたが、デジタル・インターネット時代においては1億総映画監督もありえる話でしょう。
 映画監督とは、映画を撮る人ではありません。映画を実際撮る人は撮影監督であり、フィルムを装てんするのは撮影助手が通例となっております。このように各専門職のチェック役、船長が映画監督であり、いわば社長、CEOであります。
 その下で働く専門職や俳優によって映画は作られているといっても過言ではありません。
 また、出資者・株主は映画の場合、いわゆる大規模映画会社やテレビ局の映画部門などでしょう。それ以外にも外国では国自体が出資してくれたり、さまざまです。
 国自体が出資する場合、例えば徴兵がスムーズにいくように、若者に格好良く戦場に行くことを促す映画などが作られる可能性もありますし、エンタテインメントの姿をもって意図を達成しようとするエネルギーが働くこともありうるでしょう。また、企業にとっては、物を売るための意図をもって映画が作られることもありますし、映画=広告である映画もあるでしょう。
 さまざまな意図を持って映画は作られております。

 しかし、ここではそのような広義の映画を極端に狭めていきます。ここで言う映画技術とは「完璧な映画作家のための映画技術」であって、映画技術=「完璧な映画作家が撮影・編集その他技術に目配りして、各専門職業人の自主性によって作家性を損なわないための防衛としての知識」といえるのです。
 これは出資者にとっても、各専門職が恣意的な意図により、制作費を浪費したりすることを管理する知識、防衛ともいえるわけで、その意味での「映画技術」を考えるというのが、このブログの「映画技術」のテーマとします。

「完璧な映画作家」の定義はトリュフォーによれば、

・大衆的な商業性をおびている
・最も前衛的な実験精神・・・(若気のいたりのきわどい性描写や短絡的な実験ではない)

(参考文献)
定本 映画術―ヒッチコック・トリュフォー
フランソワ トリュフォー 山田 宏一 蓮實 重彦 / 晶文社
ISBN : 4794958188




 このようなことをなぜ私が勉強するかといえば、私もWEB映画会社を作り上場させるという野望があるからであって、チャンスが無くて埋もれた才能を持つ人の面白い映画が見たい、現状の映画には飽きてしまってつまらないなどの原因があります。
 しかし、そのような才能があっても技術やお金でつまづくことが多いのが現状であり、また恣意的な審査員によるコンテストなども、その受賞作を見ると、首をかしげたくなる作品が多く、本当に才能有る人が別の職業で成功してしまっているのではないかと私には思われるのです。
 また、才能有る人がチャンスをつかんだとしても、スタッフの隠れた意図や製作サイドの恣意的な意図によって映画作家性が損なわれ、映画作家が隅々まで管理しきれず、興行的にも失敗するというケースが生まれることもありえます。
 ここで言う映画技術とは前述したように「完璧な映画作家」のための映画技術であって、通常の映画作品の技術とは目的が違います。
 「完璧な映画作家」が郵便配達員にいた場合、「完璧な映画作家」がダムの現場作業員にいた場合に、彼らに作家性を損なわず、スタッフの意図から作家性を防衛しつつ映画を作ってもらう、そのような「映画作家」の「商業」に投資する人のための防衛知識としての「映画技術」を考えてみるという試みです。


 
# by oshiba5555 | 2005-04-09 23:32 | 映画技術